現在の生活には愛というような思弁は微塵ももつべきではない。緊張の日々は、激しく廻る車輪が、わだちの上を四周へはね跳はすように、少しでも浪漫的な思想や感情は、勢よく飛散せしめる。ただこうして静かに日記を書く時間のみが、君の心に通ずる唯一の時である。私は嘗って君に、自分の心の記録を書き残して置くことを約束した。そして今迄そのような気分と余裕を持つことが出来なかったのだ。幸い約束だけは忘れていなかったことに、幾分なりとも私の誠実を認めてくれるなら幸いだ。自分の思想を表現することに馴れていない私は、いつも筆の渋滞に腹立たしさを感ずる。
君はよく私のことを分らないと云った。尤も私の言葉も誠意に欠けた冷静なものであったかも知れない。常に一緒にいるということの幸福な感情が、我儘な気分を生んだのであろう。離れていることは、その意味でよいことのようである。他の凡ゆる心の禁制と同様に、それは、親しみと尊敬の至純な情緒を培ってくれる。君は私の子供の頃程は信頼していないかも知れぬ。若しそうだとしたら、私は実に淋しい。
けれども私は君を信じよう。しかし、もうこのように日記に自分の心を託して君に与えることより外に、私の気持を表現することが出来ない。それに私の前途は全くの未知だ。ジイドの書いたように、将来は悉く神の縄張りに属している。私自身の未来を私は予知することが出来ない。そして、私は私であっても、私の私ではない。このことは、賢明な君は良く理解してくれると信ずる。最早、私は君一人を愛すること以上に、日本を、そして君を含めた日本の人々を愛している。このようなことを書いたからと云って、私は決して思い上った怒号的なジンゴーイズムに陥っているわけではない。在学当時、私の心に育んだ憂国の理智を、愛国の情に代えたまでのことである。このことは、君には話したことがあると思う。君に会える日はもう当分ないだろう。或は永久にないかも知れない。
手向の花にくちなしを約束しておいてよかったと思っている。
あの花は母も好きだった…………。

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